第一章は、「西洋人のヨーガ」。
要約すると、カバラーというものはこれこれこういうもので西洋人の心の仕組みに合ってる体系だから西洋人はカバラーやろうぜ!というようなことが書いてあります。
魔術でもなんでも、何かを学び修める場合には自分に合ったやり方をとることが、ありとあらゆる場所でおすすめされております。
また、魔術においては体系という、私の言葉で記すならば己の内に築き上げる世界観がとっっっっっても重要視されます。
簡単に言えば、世界はこういう原理で動いてるんだからその原理に沿って構築した理論が効果を発揮するのは当たり前、という信念のようなものです。
体系もしくは世界観もしくは信念が何故恐ろしく重要視されるのかと言いますと、それを語るだけでまた長文の記事が書きあがってしまう程の分量になりますので割愛しますが、魔術でもタルパでもなんでもいいのですが、オカルト技術というものは総じて己の潜在意識にどうにかこうにか働きかけてその効力を発揮します。
そう、己の内に働きかけるのです。
己の内に働きかける以上、自分の中にその働きかけが引っかかるモノがないと何も起こりません。
相変わらず雑な図で例え話をしましょう。
上の図の中で左上から伸びている引っかけ棒が、自分に合っていない体系や世界観に沿って構築した術だと思ってください。
自分の中に丸いモノしかないのに釣り針みたいな働きかけをしたって文字通り何も引っかかりませんし、何も動かすことはできないことは想像に難くないと思います。
では、自分に合った体系や世界観を使うとどうなるのでしょうか?
はい、引っかけられましたね!
こうして引っかけられたモノがいい具合に働いて、物理世界に効力として具現化するわけです。
こらそこお玉型最強じゃね?とか言わない。
自分の内側にあるモノが丸い形をしているモノだけとは誰が言った。
…以上の三つの図はあくまでもイメージ・例え図ですので、※実際の術の働きの図とは大いに異なる場合がございます。
とにかく、自分に合った体系や世界観を持つことはとっても大事な事なんだな~、ということが分かっていただければそれで充分です。
んで!
主に魔術世界にて扱われるカバラーというものは多大に一神教的世界観を含んでおります。
というよりは、カバラーというものが元々は聖書を研究することで世界の真理に至ろうというような学問であった、という話がありますので、もろ一神教です。
この部分あんまり自信が無いので、私の浅学を大いに嗤いつつ、興味のある人は自分で調べてみてください。
第二章は、「小径」の選択。
この章では、いかにカバラーが西洋人向けの体系なのか、また自分に合っていない体系を選ぶことがいかによろしくないか、についてダイアン・フォーチュン氏的な考えでもって語られております。
はい、第一章にもありましたが、どうにもダイアン・フォーチュン氏はカバラーを西洋人向けの体系である、という前提でもって『神秘のカバラー』を書かれているようなのです。
この章まで読むと、あれ?カバラーって日本人向けじゃないんじゃね…?という不安感にかられます。
多分実際に向いてないんじゃないかな~…とは私も思います。
日本人と西洋人の違いは沢山あります。
まずは言葉が違います。
使用している言語によって脳が異なる発達をする、という話もあるくらいです。
次に、現代に至るまでに辿ってきた歴史が違います。
近代の歴史は勿論として、そもそも原始時代に主に採集をしていたか農耕をしていたか狩りをしていたか、といった違いにより、食生活の違いからそもそも体の細部の構造?働き?が違ったりします。
海藻には栄養(おそらくカロリー的な意味で)がないからダイエットにオススメ!という話が出回った後に、でも日本人は長らく海藻を食いまくってたので海藻からも栄養が取れるようになっていた、というオチがつくくらいです。
この辺うろ覚えなので興味のある人は自分で調べてみてね!
また、現代に至るまでに置かれてきた環境が違います。
環境が違えば世界の見方が違ってくるのは想像できるかと思います。
例えば、温暖な地域に住んでいてとれる食物も豊かな地域と、寒さが厳しく食物がとれないどころか凍死の危険性すらある地域とでは、世界は全く違ったものに見えることでしょう。
そしてこういった違いの集大成とも言えるのが、宗教の違いです。
カバラーがその根元を宗教に根差している以上、この違いを見過ごす事はできないでしょう。
なので、私はカバラーって日本人に向いてないんじゃないかな~…と思います。
ただ、向いてないからといってカバラーについて学ぶことが全くの無駄足になるかというと、全くそうは思いません。
日本人がカバラーを学ぶことは、確かに日本人オカルティストにとって有益です。
カバラーを自らの体系として拠り所にするのはちょっとな~…ってだけです。
別にどうしてもカバラーを自分の体系にしたいんだ!って言うんなら止めるつもりはありませんが。
自分はこれを習得するのに一般的に有利ではないとされるけれど、それでも自分はそれをしたいんだ!というのもそれはそれで大切な衝動だと私は思います。
何故有益なのかという話も簡単にしておきましょう。
西洋魔術だったり引き寄せだったり、おおよそ西洋由来のオカルト技術というものは、根っこにカバラー的な考えが流れております。
ですので、カバラーについて知っておくことは、そういったオカルト技術の研究に物凄く役立ちます。
むしろカバラーを知っておくことで、己の内に築き上げていく自分だけの体系・世界観の強化に繋がります。
これは私の持論なのですが、カバラーだろうが宗教だろうが本当の本当の根っこでは、実は同じこと(特に力の働き方の原理など)言ってんじゃね?って思ってます。
それが集合無意識だと言われちゃうと何ともいえないんですが。
要は、同じ山を登るのにどの道から登ろうが、登り続けてさえいれば同じ頂上に辿り着く理論です。
このことについては色々言いたいことがあるのですがどうせ長くなるのでやめておきます。
日本人がカバラーを己の体系とするのはびみょ~…だと思うけど日本人がカバラーを学ぶのはめっちゃ有益だと思うよ!ということだけ、ご理解いただければ幸いです。
第三章は、「カバラー」の方法、と書いたところでふとこの本何章まであるんだっけ…?と思って見返してみたのですが、第一部だけで第十三章までありやがる…。
ええい、こんなんじゃいつまでたっても書きあがらんわ~!!!
ちなみに全体で第二十七章まであります☆彡
…やってられっか~!!!!!
わたしゃとっととネツァク・ホド・イェソド・マルクトのいわゆる低次のセフィロートの章の考察まで行って、そこで生命の木的タルパの作り方とか引き寄せとかの考察をしたいんすよ!
まあ具体的な実践法ってのはこの本だけだと全然足りない(特にイェソドは恣意的に書かれてないっぽい)ので、そんな深いことは書けないんだけどさ!
というわけで、ここからは駆け足(当社比)で語っていきたいと思います。
第三章は、「カバラー」の方法。
先にもあげた生命の木を瞑想に使うことがどんなに有用かということが丁寧に書かれています。
何でも、生命の木は単独の象徴ではなく複合的象徴であるからして、心が勝手に象徴ごとの繋がりを連想していくシステムが出来上がっているので、心の鍛錬(連想的な意味で)にもお役立ち!…みたいな感じです。
私はこの、心の鍛錬にも使えるって部分にとても感銘を受けたんですよね。
『神秘のカバラー』を読む前の私は、カバラーなんて何でも唯一神にこじつけて考えるためのやつだろペペペー!(大変な偏見)と思ってかんなり敬遠していたのですが、実はそうではないのだということを、この章で知ったわけです。
いや唯一神ありきな所は変わらないのですが、『神秘のカバラー』を読んだ後だと、システムや構造としては見習う所が大いにある体系なのだなあ…と思います。
『神秘のカバラー』を読んで良かったと思います。
ちなみに、前回の記事で引用した生命の木って何ぞや?という文章はこの章の冒頭部分にあります。
第四章は、「書かれざるカバラー」。
一口にカバラーと言っても色々種類があるんだよ!ということと、紛らわしい生命の木の構成の解説が書かれています。
紛らわしいっていうのは、生命の木の図は一つなのに四つの次元の事を考えなきゃいけないところだったり、生命の木には各セフィラーを繋ぐ小径(パス)というものが全部で22本あるのですが、ここに割り当てられる象徴「十二宮」・「七惑星」・「四大」を合わせると全部で23になっちゃう理由だったりだとかが実に紛らわしいんですよね。
多分生命の木の密儀を受けていないものが軽々しく扱えないように…(嫌がらせではなく危なかったりするから)とかそういう理由もあったりするんだろうな、とは思うものの、それでも紛らわしいことに変わりはないと思います。
その点ダイアン・フォーチュン氏は、密儀の詳細等の隠すべき場所は隠しつつもかなりの部分を『神秘のカバラー』内で公開しているので、まあ初学者的には有難いな、とは思います。
第五章は、「否定的存在」。
はい、前回の記事でも出したこの図の上のうにょうにょの部分が否定的存在の部分です。
この章ではこの部分について語っている章です。
(私が現時点で出した)結論としては、私達の世界の中では存在していると定義できないけど、世界の外側では確かに存在しているものについて、とりあえず否定的存在って言っておこう、みたいな感じです。
虚数iみたいなものです。
ちなみにiはこの本の最後の方に出てくるクリフォートというものにつけられる記号でもありますので、その辺りは混同しないようにしてください。
要は名前をつけることによって人間にも扱えるというよりは考えられるようにしよう、ということですね。
名前が無いものに対して、それを人間は考えることができません。
この話も語ろうと思えばえげつないほど語れるのですが、豪快に省略です。
いい加減全然駆け足になってないのに、これ以上長くなってたまるか~!
等と言いながら第六章は、「オツ・キイム」、「生命の木」。
いきなりオツ・キイムとか出てきましたが、これは生命の木のヘブライ読みだそうです。
ここでは、生命の木は全体として把握しておかなきゃ駄目だよ!というわけで、生命の木全体の説明…といいますか、パーツごとの解説がなされています。
家具を組み立てる際の説明書に、これはねじといい、部品を結合させるために使用します…というような、内容物の説明が載ってるようなもんです。
あと何故かやたらケテルが引き合いに出されるのですが、第一のセフィラーだからってことにしておきましょう。
次なる第七章は、「至高の三角形」。
…といきたい所ですが、ここで私の中の小宇宙が「ここは語らねば…!」と囁いている為、ここでまた分割させていただこうと思います。
ここをぶっ飛ばすのは非常に勿体無い!と思うのは、この第七章「至高の三角形」ってタイトルにしておきながら、それ以外の三角形についてだとか、生命の木上で何故各セフィラーを三つ組みにしなきゃいけないのかとか、セフィラーの多少の解説とか象徴をセフィラーごとに分類する振り分け方とか、生命の木を学ぶにあたって重要そうな事が一杯かいてあるんですよ!
というわけで、この章についても当然長くなります。
覚悟しておいてください。
(続く)
第三章は、「カバラー」の方法。
先にもあげた生命の木を瞑想に使うことがどんなに有用かということが丁寧に書かれています。
何でも、生命の木は単独の象徴ではなく複合的象徴であるからして、心が勝手に象徴ごとの繋がりを連想していくシステムが出来上がっているので、心の鍛錬(連想的な意味で)にもお役立ち!…みたいな感じです。
私はこの、心の鍛錬にも使えるって部分にとても感銘を受けたんですよね。
『神秘のカバラー』を読む前の私は、カバラーなんて何でも唯一神にこじつけて考えるためのやつだろペペペー!(大変な偏見)と思ってかんなり敬遠していたのですが、実はそうではないのだということを、この章で知ったわけです。
いや唯一神ありきな所は変わらないのですが、『神秘のカバラー』を読んだ後だと、システムや構造としては見習う所が大いにある体系なのだなあ…と思います。
『神秘のカバラー』を読んで良かったと思います。
ちなみに、前回の記事で引用した生命の木って何ぞや?という文章はこの章の冒頭部分にあります。
第四章は、「書かれざるカバラー」。
一口にカバラーと言っても色々種類があるんだよ!ということと、紛らわしい生命の木の構成の解説が書かれています。
紛らわしいっていうのは、生命の木の図は一つなのに四つの次元の事を考えなきゃいけないところだったり、生命の木には各セフィラーを繋ぐ小径(パス)というものが全部で22本あるのですが、ここに割り当てられる象徴「十二宮」・「七惑星」・「四大」を合わせると全部で23になっちゃう理由だったりだとかが実に紛らわしいんですよね。
多分生命の木の密儀を受けていないものが軽々しく扱えないように…(嫌がらせではなく危なかったりするから)とかそういう理由もあったりするんだろうな、とは思うものの、それでも紛らわしいことに変わりはないと思います。
その点ダイアン・フォーチュン氏は、密儀の詳細等の隠すべき場所は隠しつつもかなりの部分を『神秘のカバラー』内で公開しているので、まあ初学者的には有難いな、とは思います。
第五章は、「否定的存在」。
はい、前回の記事でも出したこの図の上のうにょうにょの部分が否定的存在の部分です。
この章ではこの部分について語っている章です。
(私が現時点で出した)結論としては、私達の世界の中では存在していると定義できないけど、世界の外側では確かに存在しているものについて、とりあえず否定的存在って言っておこう、みたいな感じです。
虚数iみたいなものです。
ちなみにiはこの本の最後の方に出てくるクリフォートというものにつけられる記号でもありますので、その辺りは混同しないようにしてください。
要は名前をつけることによって人間にも扱えるというよりは考えられるようにしよう、ということですね。
名前が無いものに対して、それを人間は考えることができません。
この話も語ろうと思えばえげつないほど語れるのですが、豪快に省略です。
いい加減全然駆け足になってないのに、これ以上長くなってたまるか~!
等と言いながら第六章は、「オツ・キイム」、「生命の木」。
いきなりオツ・キイムとか出てきましたが、これは生命の木のヘブライ読みだそうです。
ここでは、生命の木は全体として把握しておかなきゃ駄目だよ!というわけで、生命の木全体の説明…といいますか、パーツごとの解説がなされています。
家具を組み立てる際の説明書に、これはねじといい、部品を結合させるために使用します…というような、内容物の説明が載ってるようなもんです。
あと何故かやたらケテルが引き合いに出されるのですが、第一のセフィラーだからってことにしておきましょう。
次なる第七章は、「至高の三角形」。
…といきたい所ですが、ここで私の中の小宇宙が「ここは語らねば…!」と囁いている為、ここでまた分割させていただこうと思います。
ここをぶっ飛ばすのは非常に勿体無い!と思うのは、この第七章「至高の三角形」ってタイトルにしておきながら、それ以外の三角形についてだとか、生命の木上で何故各セフィラーを三つ組みにしなきゃいけないのかとか、セフィラーの多少の解説とか象徴をセフィラーごとに分類する振り分け方とか、生命の木を学ぶにあたって重要そうな事が一杯かいてあるんですよ!
というわけで、この章についても当然長くなります。
覚悟しておいてください。
(続く)
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